勤務中に大災害が起きたらどうする?東日本大震災で学んだ職場での対応と教訓
職場で大災害に直面したらどうするか。南海トラフ巨大地震の発生が高い割合で30年以内に発生すると予測されています。
自治体や会社では災害訓練を繰り返し、万一に備えています。しかし、発生時には想定外のことが次々と起こります。
場所や時間ごとに状況が変わるので、その場で的確に判断し、行動や対応を決断していくことが求められます。それでも日ごろからの準備が何より大切です。
戸惑わないために過去の事例から学ぶことは重要です。
勤務中に大災害に直面した瞬間
私が茨城県水戸支局でデスクをしていた2011年3月11日午後、勤務中に突如として大地震が襲いました。すぐに机の下に潜り込みました。
建物は激しく揺れ、壁は軋み、机の上のパソコンが今にも落ちそうになる。支局が入るビルはひび割れ、すぐに「閉鎖」の判断が下りました。
私はパソコンをカバンに詰め込み、4階から外へ飛び出した。街の風景は一変し、混乱が広がっていました。
朝刊に記事を送るため非常用電源が使える県庁記者クラブに行くしかない。支局長と事務員とで向かうことにしました。
初めてのヒッチハイク
道路では地震による渋滞で営業車が止まっていました。県庁の記者クラブまで7キロ離れている。自分の足だけでは間に合わない。
思い切って営業車に手を挙げると、一台の営業車が止まってくれました。支局長らと乗り込みました。人生で初めてのヒッチハイク。県庁までの道中、窓の外には亀裂が走った道路、崩れたブロック塀が次々と目に飛び込んできました。
停電と混乱の街
信号は消え、街は暗闇に沈んでいました。車は慎重に進みます。1時間以上かけてようやく県庁に到着。非常用電源が確保された記者クラブで、私は震える指でパソコンを開き、本社に第一報を送りました。支局の記者たちも次々と県庁記者クラブに集まってきました。
震災、津波、原発事故。次々と襲いかかる事態に、心は追いつかず、ただ必死に記録を打ち込み続けるしかありませんでした。
柔軟な判断が生死を分ける
携帯電話は通じない。メールも届かない。放射線量を測る携帯計測器も壊れていた。何が正しくて、何をすべきか、誰にも答えは分からない。ただ、その瞬間にできることを探し、決断するしかありませんでした。
ヒッチハイクで車を止める――それも柔軟な判断の一つでした。もしあの時、助けを求めなければ、記事を本社に送ることはできなかった。
大災害で学んだこと
大災害は予測できません。「柔軟な考えを持ち、瞬時に動ける準備をしておくこと」が、命を守り、仕事を全うする唯一の方法だと痛感しました。
街は停電し夜は真っ暗。高速道路は通行止め、JRも不通、流通もストップ。近くの東海第二原発の非常用電源が使えずに一時、制御不能になるなど大混乱に陥りました。福島第一原発の問題が起きたのは、その直後でした。
あの日の体験は、私にとって「記者として」「社会人として」「一人の人間として」生き方を変える教訓となったのです。
ビルの一角に入っていた支局は、亀裂が入ったため1カ月は使えませんでした。その間、県庁記者クラブが支局代わりになりました。
記者全員がクラブに集まりました。万全の形で取材、編集作業ができたほけではありませんでした。
大災害は発生直後だけではなく、その後も被害がずっと続くことです。停電や道路、鉄道の不通は半年近く続きました。コンビニもスーパーも閉鎖。私たちも近くの炊き出しに行って弁当をもらっていました。本社からの応援も来ることができません。
その状態で、編集作業を続け、生活していくことができるよう日頃から想定して準備することが重要です。
何より、予期できないことの連続と働きすぎで体を壊してしまっては大変。精神的に壊れてしまった人もいました。そうならないためにも冷静に自分を分析し、自分を守る作業も同時に求められます。
過酷な状況で先が見えないゴールに向かっているようなものです。こういう時は早めにメンタルドクターに診てもらうべきです。
職場で大災害に直面したときの教訓
- 命を守る行動を最優先
- 職場から安全な避難経路を知っておく
- 通信手段や電源は使えない前提で考える
- 柔軟に、その場でできる手段を選ぶ

