勤務中に大災害が起きたらどうする?東日本大震災で学んだ職場での対応と教訓

勤務中に大災害に直面した瞬間
2011年3月11日。勤務中の午後、突如として大地震が襲いました。すぐに机の下に潜り込みました。
建物は激しく揺れ、壁は軋み、机の上のパソコンが今にも落ちそうになる。支局が入るビルはひび割れ、すぐに「閉鎖」の判断が下りました。
私はパソコンをカバンに詰め込み、4階から外へ飛び出しました。胸の鼓動は早鐘のよう。街の風景は一変し、混乱が広がっていました。
ビルは入室禁止になり、支局には戻れなかった。朝刊に記事を送るためには非常電源が使える県庁記者クラブに行くしかない。そこで遠隔のデスクワークをすることに。支局長と事務員3人で向かうことにしました。
初めてのヒッチハイク
道路では営業車が渋滞で止まっていました。時間は一刻を争う。県庁の記者室まで7キロ離れている。自分の足だけでは間に合わない。
思い切って手を挙げると、一台の営業車が止まってくれました。同僚2人と一緒に乗り込みました。人生で初めてのヒッチハイク。緊張と感謝が入り混じる中、窓の外には亀裂が走った道路、崩れたブロック塀が次々と目に飛び込んできました。
停電と混乱の街
信号は消え、街は暗闇に沈んでいました。車は慎重に進みます。誰もが恐怖と不安で顔をこわばらせていました。1時間以上かけてようやく県庁に到着。非常用電源が確保された記者室で、私は震える指でパソコンを開き、本社に第一報を送りました。
震災、津波、原発事故。次々と襲いかかる事態に、心は追いつかず、ただ必死に記録を打ち込み続けるしかありませんでした。
柔軟な判断が生死を分ける
携帯電話は通じない。放射線量を測る携帯計測器も壊れていた。何が正しくて、何をすべきか、誰にも答えは分からない。ただ、その瞬間にできることを探し、決断するしかありませんでした。
ヒッチハイクで車を止める――それも柔軟な判断の一つでした。もしあの時、助けを求めなければ、記事を本社に送ることはできなかったでしょう。
県庁クラブには支局員が次々と上がり、何とか記事は本社に送ることができました。
大災害で学んだこと
大災害は予測できません。しかし「柔軟な考えを持ち、瞬時に動ける準備をしておくこと」が、命を守り、仕事を全うする唯一の方法だと痛感しました。
あの日の体験は、私にとって「記者として」「社会人として」「一人の人間として」の生き方を変える教訓となったのです。
職場で大災害に直面したときの教訓
- 命を守る行動を最優先
- 職場から安全な避難経路を知っておく
- 通信手段や電源は使えない前提で考える
- 柔軟に、その場でできる手段を選ぶ
