【記者の現場ノート】オセロは焼け野原から生まれた。発案者・長谷川五郎氏が語る「牛乳瓶のふた」から世界へ
誰もが一度は遊んだことがある「オセロ」。海外発祥だと思われがちですが、実は茨城県水戸市の焼け跡から生まれた日本発のゲームです。
今回は、発案者の長谷川五郎さんに直接伺った、オセロ誕生にまつわる情熱と、戦後復興の歩みとも重なるドラマチックな舞台裏を紹介します。
■ 焼け野原から生まれたオセロ
いまや世界に広まったオセロは、戦後の焼け野原から誕生しました。
舞台は茨城県水戸市の旧制水戸中(現・水戸一高)。男子生徒たちが休み時間に碁石で遊び始めたのがきっかけです。
1945年8月2日未明、米軍B29による大空襲で水戸市街の大半が焼失。死者は300人を超えました。水戸には日立関連の工場が多く、下請けも密集していたため、被害は甚大でした。校舎が焼けた水戸中は9月、近くの川の土手で授業を再開。黒板を置き、地べたに腰を下ろしての「青空授業」でした。

そんな中、家にあった碁石を持ってきた生徒がいました。しかし、皆囲碁のルールをよく知らなかった。
「相手の石で挟まれたら、石の色を全部取り換えたらどうだろう」
と新しいルールを提案したのが、当時1年生だった長谷川五郎さん(当時81)でした。
紙にマス目を描き、碁石を使って遊び始めると、10分ほどで決着がつき、休み時間にぴったりでした。ただ、碁石を裏返すのは面倒。長谷川さんは牛乳瓶のふたの片面に黒い紙を貼り、ひっくり返せば白黒が変わるコマを考案しました。牛乳を飲み続け、ふたを集めて手作りの駒をそろえました。
■ 社会人になって「売れる」と確信
茨城大学に進学後も囲碁部主将として活動しながら、部員にこのゲームを広めました。
製薬会社に就職すると、営業先の医師に「頭と手を使うからリハビリになる」と言われ、病院に置いてもらいました。会社の若い女性社員にも評判が良く、「これは売れる」と確信。玩具メーカーのツクダオリジナル(現メガハウス)に持ち込み、社長が気に入って1973年に発売されます。
商品名「オセロ」は、英文学者の父・四郎さんが命名。
シェークスピア劇の黒人将軍オセロと白人の妻デズデモーナを、黒と白の石に見立て、緑の盤上(平原)で繰り広げられるドラマをイメージしたものでした。
オセロは国内で爆発的にヒット。世界大会も開催されるようになり、日本オセロ連盟によると、国内で遊んだことのある人は1億人を超えるといいます。
「劣勢でも一気にひっくり返せる。こんな波乱に満ちたゲームはない」と長谷川さん。
それは、敗戦の痛手から復興を遂げた日本の歩みにも重なって見えます。
■ チェス王者とも白黒つけた
世界でオセロが知られるきっかけとなったのは、チェス王者との「夢の対決」でした。
1976年10月、全英チェス王者トニー・マイルズ氏と、第4代全日本オセロ王者・藤田二三夫五段の対決をBBCが企画。2か月の準備期間を経てロンドンで行われた3番勝負は大熱戦となりました。
1局目をマイルズ氏が先取しましたが、2局目・3局目を藤田五段が連勝。BBCは世界へ放送し、米タイム誌も「オセロはチェス以上のゲーム」と報じました。
その後、藤田五段は渡米してエキシビションを開催し、1977年にはニューヨークで「世界オセロ連盟」が設立されます。
同年、東京・帝国ホテルで第1回世界選手権が開かれ、井上博五段が初代世界王者に輝きました。
■ 平和への願いを込めて
長谷川さんがオセロに込めたのは、「卓を囲んで大人も子どもも、国が違っても楽しめるゲームに」という平和への願いでした。
東京都内で取材した際、柔和な表情で「オセロは世界の共通語になった」と語る姿が印象的でした。

いまやオセロは、囲碁や将棋をしのぐ競技人口を誇り、インターネットを通じて世界中の人々をつなげています。
まとめ
「劣勢でも一気にひっくり返せる」。長谷川さんが語ったこの言葉は、敗戦の苦しみから立ち上がった当時の日本人の希望そのものだったのかもしれません。チェス王者を破り、世界へと広がったオセロ。取材中、柔和な表情で「オセロは世界の共通語になった」と語った長谷川さんの言葉には、国境を超えて手を取り合うことへの、深い平和への願いが込められていました。

