敦賀・港町がつないだ日本と世界──知られざる国際都市の歴史

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新聞記者として各地を取材していると、赴任先の街に眠る歴史や文化に驚かされることがあります。福井県敦賀市もその一つです。

明治から昭和初期にかけて、敦賀港は東京とヨーロッパを鉄道と船で結ぶ重要な拠点でした。小さな港町ながら、文化人やスポーツ選手、難民らが行き交い、今も当時の建物や遺構が残ります。
昨年には北陸新幹線が敦賀まで延伸し、かつての賑わいが再び戻りつつあります。今回は「記者の仕事の裏側・都市編」として、敦賀の隠れた魅力を紹介します。

欧亜国際連絡列車──東京からヨーロッパへ1枚の切符で

100年前、東京からヨーロッパまで行ける「欧亜国際連絡列車」(1912〜1941年)がありました。
新橋駅を出発し、敦賀まで鉄道で移動。敦賀港から連絡船でロシア・ウラジオストクへ渡り、そこからシベリア鉄道でヨーロッパへと向かいました。

1カ月かかっていた船旅が約1週間に短縮され、当時としては最速のルート。敦賀港は「東洋の波止場」と呼ばれました。

敦賀を経由した著名人と物語

このルートを使ったのは、文学者の与謝野晶子や、ストックホルム五輪に出場した金栗四三ら日本選手団、探検家アムンゼンなど多彩な人々。
1920年代には、ロシア革命で家族を失ったポーランド孤児たちが日本赤十字社の支援を受けて敦賀港に上陸しました。
また、作曲家セルゲイ・プロコフィエフも訪れ、小説家として敦賀の様子を記録に残しています。

杉原千畝と「人道の港」敦賀

敦賀に最もゆかりの深い人物の一人が外交官・杉原千畝です。
第二次世界大戦中、リトアニアでナチスの迫害から逃れるユダヤ人に“命のビザ”を発給。
約6000人が欧亜国際連絡列車を経由して敦賀港にたどり着きました。

敦賀の人々は銭湯を無料で開放し、リンゴなどの果物を差し入れて避難民を温かく迎え入れたといいます。
「この地の人々の優しさは忘れない」という言葉が今も残され、港近くにはその歴史を伝える「人道の港 ムゼウム」があります。

鉄道と西欧文化の面影を残す町並み

敦賀港周辺には、赤レンガ倉庫や敦賀鉄道資料館などがあり、当時の鉄道文化や建築を感じることができます。
鉄道資料館は「欧亜国際連絡列車」の発着駅だった敦賀港駅舎を再現。歴史ファンには必見のスポットです。

また、地元グルメとして有名な「敦賀ヨーロッパ軒」では、ソースカツ丼をはじめ、ロシア語の看板や「スカロップ」「ジクセリ」など、異国情緒を感じる料理が楽しめます。
ムゼウムでは、リンゴ型の丸めたタオルなどユニークなお土産も販売されています。

「ツヌガ君」と敦賀のルーツ

敦賀の地名は、古代朝鮮半島の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に由来します。
その名にちなんだ市公認マスコットキャラクター「ツヌガ君」も人気です。

銀河鉄道999とヤマトのモニュメント

敦賀駅から気比神宮にかけて、「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト」の名場面を再現したモニュメント像28体が並びます。
松本零士さんの世界観を体感できる散策ルートで、観光客にも人気です。

設置理由を当時の市長に尋ねたところ、「敦賀港開港100年の記念として松本先生にお願いした」とのこと。


鉄道とは直接関係がないそうですが、町の風景にはよく馴染んでいます。

現在も続く国際交流と港のにぎわい

私の在任中も、ポーランド大使やイスラエルの高官、ユダヤ人団体の代表らが訪れ、市長と面会する姿をよく見かけました。
市民レベルでの交流も盛んで、港町としての国際性はいまも息づいています。

江戸時代から北前船の寄港地でもあり、現在も北海道との定期航路が運航中。
敦賀港のレストランでは、海を眺めながら北海道産のジンギスカンが味わえます。旅の締めにおすすめです。

おわりに

敦賀は古くから海と鉄道を通じて世界とつながってきた町。
歴史をたどると、ただの港町ではなく「人と文化が交わる場所」であったことがわかります。
これからも記者として、各地の街に眠る物語を紹介していきます。

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シュレディンガー
シュレディンガー
報道記者
マスコミに勤務。記者として東京、大阪での取材経験あり。最近はサイエンスコミュニケーター目指して宇宙物理や量子力学を学んでいる。
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