雪国での異動先、地元紙との静かな戦い

30代後半で、雪が降る地方都市に異動になりました。
地方都市への異動と不思議な偶然
遊軍や市政キャップを担当しました。赴任前から「地元紙が強いから苦労するぞ」と社の人間に言われていました。着任後、街の中心近くでマンションを借りたのですが、ほどなくして地元紙の記者が私の部屋の二つ上に引っ越してきました。奇妙な縁を感じざるを得ませんでした。
地元紙に存在した「報告書」
その地元紙には、私の会社に特化した「報告書」が存在していました。毎朝、地元紙の記者が社の幹部に、私の社の記者の行動を逐一報告していたのです。
私が市政を担当していたとき、課長に取材すると、すぐに地元紙の記者に情報が伝わりました。結果、記事はいつも同着でした。ある日、先に私が夕刊に記事を載せたところ、地元紙の記者は課長の自宅に怒鳴り込んだと聞きました。翌日、課長から「もう私のところに取材に来ないでほしい」と泣き言を言われたのは忘れられません。
飲み会での「分断」ルール
当時、記者クラブの電話も盗聴されているのではないかと疑うことが度々ありました。そこで、やり取りは携帯電話に切り替えました。唯一、市長だけは私に懇意にしてくれて、直接話を聞けることもありましたが、それでも常に「監視されている感覚」が付きまといました。取材が筒抜けになるたび、背中に冷たい雪が降り積もるような気がしました。
また、地元紙の記者は他紙の記者と飲み会で同席することを禁止されていました。商工会や団体との懇親会では、わざわざ社に出席許可を求めなければいけなかったのです。まるで秘密結社みたいでした。
直接話す機会はありませんでしたが、他の全国紙の記者たちとは仲良くなり、一緒に食事に行くと、必ず「地元紙の話」で盛り上がりました。彼らも同じように息苦しさを感じていたのです。
地元紙の特ダネと「惜しむ声」
そんな地元紙の記事の中には、思わず唸らされるものもありました。あるとき、老舗風俗店が閉店するニュースが写真入りで第二社会面のトップを飾りました。常連客の「惜しむコメント」まで載っていて、読んだ瞬間「やられた」と思いました。ただ、私は後追い取材をしませんでした。
前任者たちが語らない理由
この地域を経験して本社に戻った記者たちは、前任地のことを一切語りませんでした。私が話を向けても、みな一様に口が重くなるのです。その沈黙が、この土地での記者生活の特殊さと重さを物語っているようでした。
この街での経験が、その後のキャリアや人生を大きく変えるきっかけになった。
