勤務中に大災害に巻き込まれたら? 東日本大震災で新聞デスクが直面した「想定外の連続」と、リーダーに求められるリアルな危機管理論
もし、あなたが勤務しているまさにその瞬間に、未曾有の大災害に見舞われたらどうしますか?
まずはできる範囲で情報を集めること。室内にいたなら外の状況を見る。
テレビやラジオ、スマートフォンで初期情報を確認し、震度や洪水エリアなどから全体の被害の大きさを推測して対応を検討する――。
これらはマニュアルの基本です。しかし、本物の大災害における現場では、マニュアルを遥かに超える「想定外の事態」が次々と襲いかかってきます。
大切なのは「柔軟な考えを持ち、瞬時に動ける準備をしておくこと」、「どんな状況に追い込まれても、今何ができるかを冷静に考え、行動に移していく覚悟」
2011年3月11日、東日本大震災。私は水戸市のビル4階に入る新聞社の地方支局で、デスク(編集責任者)としてその瞬間を迎えました。
発生直後から中長期にわたる組織の維持、そして部下たちのメンタルケアまで、走りながら判断し続けた私の実体験から、非常時にリーダーが持つべき「本当の覚悟と対応」を伝授します。
1. 勤務中に大災害に直面した瞬間:激震、そして「ビル閉鎖」からの脱出
2011年3月11日午後、激しい揺れが水戸支局を襲いました。支局内にいた私と支局長、そして事務員の女性は、とっさに机の下に潜り込みました。
建物は軋み、壁にはみるみるうちにひびが走り、机の上のパソコンが床へと叩きつけられる。揺れが収まった直後、ビル全体に「閉鎖」の非情な判断が下されました。
私たちは辛うじて動くノートパソコンをカバンに詰め込み、4階から屋外へと飛び出しました。外に出ると、高層ビルは傾き、道路や敷地には瓦礫が散乱。
街の風景は一変し、不安な表情の人々が携帯電話を耳に当てて立ち尽くしていました。
しかし、私たちは新聞記者。何があっても今夜の朝刊に、被災地の第一報(記事)を送らねばならない。非常用電源が使えることが確認できた「茨城県庁の記者クラブ」へと移動することを決意しました。

2. 人生初のヒッチハイク:信号が消えた混乱の街を突破する
道路は地震による損傷と大混乱で、すでに大渋滞を引き起こしていました。 目的地の県庁記者クラブまでは約7キロ。交通インフラが麻痺した中、自分たちの足だけでノートパソコンを抱えてたどり着ける距離ではありません。
渋滞の列を冷徹に見つめていた私は、3人が同時に乗れそうなバンタイプの営業車を発見しました。私は意を決して、人生で初めての「ヒッチハイク」を試みるべく、その営業車に向かって手を挙げました。
幸いにも運転手の方は私たちの切迫した状況を察して快諾してくれ、支局長らと共に車内へ滑り込みました。県庁までの道中、窓の外には深く亀裂が走った道路や崩れ落ちたブロック塀が次々と目に飛び込んできました。
信号は完全に消え、暗闇に沈みつつある街を慎重に進み、1時間以上をかけてようやく県庁に到着したのです。
非常用電源で明かりが灯る記者クラブで、私は即座にパソコンを開き、東京本社へ水戸の第一報を送信しました。その後、支局の記者たちも次々と県庁へ集結。震災、津波、そして福島第一原発事故。
次々と襲いかかる未曾有の事態に対し、私たちは必死に記事を打ち続けるしかありませんでした。
3. 柔軟な現場判断が生死を分ける:通信麻痺と「原発メルトダウン」の恐怖
大災害の現場では、平時のインフラや道具は一切あてになりません。携帯電話は中継局の損壊で不通、メールも届かない。さらに、支局に配備されていた放射線量を測る携帯計測器(線量計)すらも壊れて使い物にならない状態でした。
何が正しく、何をすべきか、誰も教えてくれない。ただ、その瞬間にできることを探し、決断する連続でした。
しばらくの間、取材基地となった記者クラブの部屋は電気と備蓄の水が確保でき、県発表の被害状況が手に入る唯一の砦となりました。
しかし、本当の戦いはそこからでした。直後に発生した、福島第一原発のメルトダウン(炉心溶融)の問題です。
勇ましい女性記者を説得し、被爆リスクを回避する
放射性物質が茨城や千葉にまで飛散する中、線量計が壊れている以上、県が発表する断片的な数値に頼るしかありませんでした。
そんな中、「線量が高いとされる危険な現場へ、直接取材に行きます!」と主張する勇ましい女性記者がいました。
ジャーナリストとしての使命感は素晴らしい。しかし、リーダーは部下の命を守らねばならない。私は彼女を必死に説得し、現場行きを思いとどまらせました。
被災後の取材においては、二次災害や被爆のリスクを冷徹に天秤にかけ、指示を出さなければならないのです。

4. 中長期の組織マネジメント:部下の「心のケア」と「赴任拒否」のピンチ
大災害の影響は、発生直後だけでなく中長期にわたって組織を蝕みます。流通はストップし、コンビニやスーパーはすべて閉鎖。私たちも近くの炊き出しに並んで弁当をもらい、孤立無援の状態で編集作業を続けていました。
そうした過酷な状況下で、リーダーが最も直面する重大な課題が「部下のメンタルケア」と「人員の確保」です。
① 恐怖で動けなくなった部下のケア
支局には5人の記者、通信部に2人の記者がいました。先が見えないゴールに向かって働き続ける中、予期せぬ余震の恐怖と過労で精神的に疲弊していく。
連絡が取れなくなった40代の男性記者がいました。彼は震度6クラスの激しい余震が怖くて、家族3人で車の中に閉じこもり、震えていたのです。仕事のことを考える心の余裕は完全に失われていました。
彼は東京本社への帰還を強く訴え、2ヶ月後に希望が通り異動していきました。私は部下の安全と同時に、早めにメンタルドクターに診せる手配などの重要性を痛感しました。
② 本社記者たちの「赴任拒否」と、リーダーのやりくり
さらに組織を揺るがしたのが、後任の人事でした。
本社に戻った男性記者の代わりに水戸支局へ内示を受けた記者たちが、「被災・被爆地への赴任」を理由に、次々と水戸への赴任を拒否したのです。
定期異動で管内のつくば通信部にくる予定だった記者も同様に赴任を拒否。これにより、前線の記者が一気に2人も減るという、メディアとしての致命的なピンチに陥りました。
道路は寸断され、本社からの物資応援も届かない孤立した状況。しかし、私は本社と連絡を密にし、粘り強く交渉を重ねました。
結果として、関東の他支局から「期間限定の若い応援記者」を交代制で出してもらうルートを確立し、なんとか最前線の紙面を守り抜くことができたのです。

まとめ:どんな状況でも「何ができるか」を冷静に考える覚悟
大災害は予測できません。高速道路が止まり、JRが不通になり、近くの東海第二原発でも非常用電源のトラブルで一時制御不能になるなど、文字通りすべての前提が崩壊しました。
記者が利用していた立体駐車場が壊れて取材車が取り出せなくなったときは、代車の手配に奔走しました。
本社からは「福島第一原発からさらに大量の放射性物質が噴出したときは、支局員を全員代車に乗せて即座に西へ逃げろ」との極秘指示も受けていました。まさに、走りながらの命がけの判断の連続でした。
予測できない危機の連続において、命を守り、組織の仕事を全うするために必要なこと。それは「柔軟な考えを持ち、瞬時に動ける準備をしておくこと」、そして「どんな状況に追い込まれても、今何ができるかを冷静に考え、行動に移していく覚悟」です。
その覚悟こそが、非常時にあなた自身と、あなたのチームを救う最大の力になります。
