赴任先の歴史を知ると転勤生活はこんなに変わる――水戸と敦賀で気づいた「土地が人を変える瞬間」
なじみのない赴任先での暮らしは、誰にとっても戸惑うものです。
転勤をどう楽しむか――これは多くの人に共通するテーマです。
私の経験から言えば、その土地の歴史や文化を知ることが、転勤生活を豊かにしてくれます。
時にはその後の人生や価値観にまで影響を与えてくれることがあります。
私は新聞記者として、水戸市と福井県敦賀市の2つの土地に赴任しました。
そこで、思いもよらない歴史のつながりを体感し、転勤の価値を考え直すことになりました。
●水戸で触れた、天狗党の激動の歴史
水戸は、偕楽園や弘道館など、水戸藩ゆかりの史跡が多く残っています。
水戸光圀公(水戸黄門)でも知られた土地です。
幕末、水戸藩は保守派と尊王攘夷を唱える改革派(天狗党)に分裂し、激しく対立しました。
1864年、天狗党は家老・武田耕雲斎を中心に挙兵し、横浜港鎖港を求めて西へ。
しかし幕府に追討され、行く先々で阻まれながら進軍を続けました。
一行は、水戸藩主の子である一ツ橋慶喜(のちの徳川慶喜)が天狗党討伐軍の総大将であることを知り、行く手もふさがれたため天狗党823名は敦賀の新保で降伏。
鰊(にしん)粕を貯蔵する蔵16棟に送られ、うち353名は斬罪となり、敦賀市の来迎寺境内で刑に処せられた。残る約470名も遠島・追放・水戸渡し・寺預け・江戸送りとなり、水戸で始まった天狗党の乱は、敦賀で終息する。
この歴史は、水戸の人たちにとっては思い入れがあり、水戸藩の支柱となった「水戸学」は今も学ばれています。
私は水戸支局への赴任をきっかけに天狗党や桜田門外の変など、水戸藩士が歴史の節目に大きく関わってきたことへの理解が深まりました。

●10年後、敦賀で“物語がつながる”
水戸支局を離れて10年。
次に赴任した敦賀で、住民の天狗党への接し方に驚かされました。
敦賀の人たちは歴史のはざまに散った彼らの無念さを哀れに思い、神社を建て、「悲劇の志士」として丁寧に葬りました。
市内には国指定史跡「武田耕雲斎等の墓」や市指定文化財の旧鰊蔵「水戸烈士記念館」がある。顕彰活動は続き、桜田門外の変以来、わだかまりのあった水戸と彦根市を結びつける仲立ちもした。現在、敦賀市と水戸市は姉妹都市にもなり、市民レベルの交流も盛んです。
水戸と敦賀が1本の物語でつながった瞬間、胸が震えるような感覚がありました。
今年、「旧鯡蔵」が修復移築。完成式典には水戸市の高橋靖市長ら約40人が参加。高橋市長は「水戸烈士を研究してもらう施設ができたことは、水戸市民として大変喜ばしい」と話し、茨城県の宮田達夫常陸太田市長、原浩道潮来市長も祝辞を述べた。
●水戸の豊かな食文化と独特の若者文化
茨城県は農業産出額が全国3位の巨大農業県。
メロン、レンコン、さつまいも…食文化は非常に豊かです。
水戸市では喫茶店ランチにビュッフェが付くのが普通。パンやカレー、スパゲティ、野菜、デザート、飲み物まで追加料金なし。ワインも少額の追加料金で好きなだけ楽しめた。おそばの“普通盛り”は他県の大盛り級でした。
食べ物も歴史と同様に豪快でした。
週末の夜になると水戸駅前には暴走族が集まり、派手な改造車やバイクで走り回ります。背景には、メロン農家の「メロン御殿」やシジミ漁師の「シジミ御殿」があり、経済的に余裕のある互いの家庭の若者たちがチームで競争しています。パトカーが追いかけているのをよく見ました。
どこか水戸天狗党の勇ましさが残っているようでした。
●転勤は、その土地の文化に触れないともったいない
水戸では激動の歴史を。
敦賀では天狗党を温かく見送った人たちの心を。
2つの土地で得た経験は、その後の私の考え方や仕事観を変えてくれました。
本社に戻っても新しい価値観で、仕事に臨めました。
赴任先では、ぜひその土地の歴史や文化に触れてみてください。
日々の生活が驚くほど豊かになり、
転勤が「ただの勤務」ではなく、人生の財産」になります。


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