ローカル線を歩く 伊賀線と人々をつなぐ物語 4ー上野市駅 駅舎はハイカラ設計5ー広小路駅 だんじり 本気の模型
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100年以上の歴史を持つ伊賀鉄道・伊賀線の魅力について各駅をめぐるシリーズの4回目、5回目は上野市駅(忍者市駅)と広小路駅です。
上野市駅(忍者市駅)――伊賀線の中心駅に残る洋風建築
上野市駅は伊賀線の中心駅。駅舎は1917(大正6)年に完成しました。急勾配の屋根を直角方向に重ねたマンサード屋根と呼ばれるモダンな三角屋根は四方から同じ形に見える。伊賀線で唯一の洋風建築で2002年の「中部の駅百選」にも選ばれました。
これまで駅舎は、地元出身の建築家城戸武男氏の設計とも言われたが確証はなかった。これについて郷土史に詳しい地域誌「伊賀百筆」編集長の北出楯夫さん(当時75)=小田町=は「大阪の建設業者ハイカラ屋の設計建設と分かった」と明かす。
きっかけは、愛知県豊橋市の刊行物に掲載された写真。一部が旧豊川鉄道の吉田駅(豊橋市)の駅舎で、1916年にハイカラ屋が建設した。駅舎は終戦直前に空襲で焼失し、再建されることはなかった。写真の存在を知った北出さんは昨年秋に豊橋市や鉄道会社から写真や資料を取り寄せ、デザインや造りなどが上野市駅と一致したことからハイカラ屋と断定しました。

北出さんによると、社長を務めるなど伊賀鉄道に大きな影響を残した地元実業家の田中善助(1858~1946年)が吉田駅に目を付けたとみる。「節約家の一方で新しいものを取り入れる田中は、同じデザインをそのまま使ったら経費を抑えられるとハイカラ屋にやらせたのではないか」と推測する。
駅舎は市街地のシンボルになった。駅から南へ、本町通りに抜ける道路と20店舗余の商店街「新天地」が民間主導で整備され、街ににぎわいをもたらしたという。
アーケードのある新天地を歩くと、今も人気うどん店、おしゃれなカフェ、雑貨屋、たこ焼き店が軒を連ねる。週末には若者たちの姿も見られます。

ロケーションナヴィゲーター伊賀会長で養肝漬宮崎屋(上野中町)社長の宮崎慶一さん(当時60)は街の景観について「江戸時代の城下町のたたずまいと、昭和の民家と生活がそのまま残っている。放送局からドラマで使いやすいと聞いた」と魅力を説明。駅前整備で「本町通りへの動線になり、街が活性化した。昭和40、50年代はすごい集客があった」と懐かしむ。
広小路駅――桜とだんじりが彩るまちの玄関口
広小路駅は急カーブに設けられたホーム。大きな桜の木があり、開花シーズンには列車とともに撮影スポットになります。

近くには上野天神宮(菅原神社)があり、10月の上野天神祭(国指定無形民俗文化財)では、城下町を絢爛豪華(けんらんごうか)なだんじり九基が巡行する。踏切では伊賀鉄道職員がT字形の竹棒で架線を持ち上げて通しています。
だんじりを出すのは城下町の本町筋と二之町筋の計9町のみ。「江戸時代、隣の上野農人町が、だんじりを出そうとしたことがある」と高田喜博宮司(当時78)から聞いた。
確かめようと、上野農人町の表具店「藤岡鳳雲堂」四代目店主藤岡俊次さん(当時63)を訪ねると、冊子に張った一枚の写真を見せてくれた。だんじりの縮小模型が写っていた。江戸時代に農人町の人たちが実物をこしらえるため作り、祭りへの参加を申し出たという。

農人町は9町と異なり、庄屋が収めていた地区。申し出は認められず、代わりにちょうちんで飾った屋根付きの柱の門で、だんじりを迎えることにした。昭和初期に描かれたとみられる上野天神祭礼図のびょうぶにも出てくる。「戦前まで設けられ、下をだんじりがくぐっていた」
これらの話は、俊次さんが父良一さん(当時92)と図書館や神社の資料などを調べて手づくりの冊子にまとめた。

俊次さんが小学生のころ、祭り当日、おはやしでだんじりに乗る子どもたちは学校を休むことが認められていた。「自分も乗りたい」と同級生をうらやましく思ったという。
市文化財保護指導委員で天神祭を調査した増田雄(たけし)さん(当時43)によると、模型は胴幕が3枚に分かれ、正面に御簾(みす)の間があるのが特徴。「彫金された金具や刺しゅうの幕で飾られ、本気さが伝わってくる」と説明する。
ちょうちんの門があった辺りは現在、築百年の町屋再生の複合施設「まちやガーデン伊賀・色々」になり、イタリア料理店、和のサロンなどが入る。うちギャラリーショップ「DECO」は、大きなはりの見える二階にあり、伊賀焼と手づくりガラスや小物アクセサリーが並ぶ。格子の虫籠窓から通りをだんじりが進むのが見られるという。
まとめ
上野市駅と広小路駅は、伊賀鉄道の歴史だけでなく、まちの文化や人々の思いが詰まった場所です。
洋風建築の駅舎と、だんじりの音が響く祭りの通り。
100年以上の時を経ても、伊賀のまちは今なお「暮らしの中に歴史が息づく場所」として、多くの人を引きつけています。

