ローカル線を歩く 伊賀線と人々をつなぐ物語 ——6茅町駅と7桑町駅が語る「近代化と手仕事の記憶」
伊賀鉄道・伊賀線の魅力を紹介するシリーズ第6回と第7回は、茅町駅と桑町駅を訪ねます。どちらも地域の歴史や人々の暮らしと深く結びついた、味わい深い駅です。
伊賀線の各駅を歩いていると、どの駅にもその土地だけの物語が眠っている。
茅町駅では、かつて夜空を照らしたガス灯の青い光。桑町駅では、93歳の竹細工職人が手がけた“だんじり”の輝き。
時代とともに風景は変わっても、暮らしを支えた人々の手仕事と気概はいまも確かに残っている。
茅町駅:街の名前を変えた駅と、文明の光を運んだ鉄路
地域誌「伊賀百筆」編集長の北出楯夫さん(当時75)=小田町=によると、周辺の町名は茅町駅にちなんで「竹ノ本」から「茅町」に変わった珍しいいきさつを持つ。住民に改名の強い要望があった。戦後、駅を拠点として市街地が東南部(緑ケ丘地区)へ広がった。
少し離れたイオン伊賀上野店付近は、かつて建築材テラコッタを製造する伊賀窯業(当時)の工場があり、駅から私有の引き込み線が敷かれていた。
伊賀窯業と上野ガス、田中善助が築いた近代産業の礎
社長を務めたのは地元の近代化に貢献した実業家田中善助(1858~1946年)。善助の自伝によると、伊賀に立派な粘土があることから、それを使って高級建築張り付け材料「テラコッタ」を製作することにした。当時、米国の輸入しかなく高価だったため日本で製造すれば相当な利益が見込めると考えた。質の高い製品にするまで苦心したが、同社の製品は東京や大阪、京都、名古屋など各地の高層建築に使われた。
上野ガス(木津龍平社長)は、その向かいに1927(昭和2)年創業し、本社敷地に石炭を加熱乾留して都市ガスを製造する工場を造った。同社50年史によると「石炭搬入の鉄道線は伊賀窯業殿の私有引込線の使用契約完了済み」とある。北出さんは「茅町駅に隣接し、引き込み線が使える利点があった」と説明する。

青いガス灯がともった夜——城下町を照らした新しい時代の光
ガスを供給する本管、支管の道路筋への敷設工事が完了した28年、菅原神社の春祭宵宮の夜、ガス灯の青い光が輝き、にぎわう城下町に新たな文明の風情がそえられた。
時代とともにガスの原料は石炭からナフサ、ブタン、液化石油ガス(LPG)、液化天然ガス(LNG)へと変わった。
上野ガス副社長の中井茂平さん(当時63)は「原料が変わるごとに製造効率と熱量が上がった」。輸送は鉄道からトラック、タンクローリーへと移り、伊賀線貨物営業は七三年に廃止された。
伊賀窯業があった一角にはガラス張りの上野ガスショールーム「フラム」が立つ。

伊賀線愛用者でもある中井さんは「沿線は昔から見慣れた風景。今も名古屋や津に行くときに使います。エンジョイライフの時間」と話す。
桑町駅:マッチ箱の駅舎と、竹細工に込めた職人の心
「マッチ箱のような素朴な駅舎がポツンとある感じ。昔はもう少し大きかったが台風や老朽化で壊れて今の形になった」

伊賀鉄道総務企画課の中村光宏さん(当時53)は、そう紹介する。
駅舎から通りを北に向かって歩き、川に架かる橋を渡ると、しょうゆや畳店など古い建物が続く。近くにすてきな竹細工を作った西出貢さん(当時93)がいると聞いて行ってみた。
素朴な駅舎が見守る町の風景
細い路地を迂回(うかい)し、奥の民家の扉を開けると玄関にひな人形、五月人形、かぶとなど竹細工がずらり並んでいた。

素朴な竹細工が好きで、会社勤めをしていたころから福井県坂井市の「越前竹人形の里」へ電車を乗り継いで毎月通った。73歳で仕事を辞めたのを機に「自分でも作ってみたい」と始めた。伊賀は材料の竹が手に入りやすかった。
93歳の竹細工職人・西出貢さん——だんじり9基を再現した情熱の手仕事
人形だけでは飽き足らず、技術も気力も充実した80歳ごろに「上野天神祭」のだんじりを作るようになった。9町が繰り出す9基すべてを作った。実物を展示してある「だんじり会館」(上野丸之内)に通い、研究し、細部まで再現した。
高さ70~80センチ。材料は竹と銅板飾りで、幕も付けた。「小刀やのこぎりを使い、1基を20日~一カ月半ほどで仕上げた」
だんじりを含む作品は市内の信用金庫や地方銀行のロビー、天神祭などで展示した。
近年は「目が見えにくくなり、体力や根気も無くなってきた」と作っていない。九基のだんじりの竹細工は、だんじり会館に寄贈し、展示されているという。
伊賀線唯一のレンガトンネル、100年の時を越えて今も
茅町駅と桑町駅間の岡波総合病院わきには、レンガ造りの長さ数ートルの伊賀線唯一のトンネルがある。100年たつが、ほぼ昔のまま現存している。上は道路になっていて、車や人が行き交う。線路近くに少し降りてのぞき込むと、ようやく赤茶色のトンネルが見える。


